こんにちは、おつまみ(@otsumami082)です。
みなさん、努力している人は好きですか?
私は好きです。
試合で勝つために地味でキツイ練習を続けるスポーツ選手とか、データをしっかり確認してPDCAを回しているビジネスマンとか、応援したくなっちゃいますね。
でも、ここで1つ疑問があってですね…
それは
というものです。
そもそも努力って何?
そもそも努力とは何なのでしょう?
コトバンクに載っていた定義によると
[名](スル)ある目的のために力を尽くして励むこと。
( 名 ) スル 心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。
努力を努力と決めるのはあなた自身ではない
努力が主観的なのはコトバンクで理解ができました。
でも私達はつい
ってなってしまいがち。
そりゃそうですよね。
だって
あなたが努力しているかどうかの評価を下すのは、上司や仲間などの第3者なのですから。
しかし、だからといって
って憤るのは早まった考えかもしれませんよ?
例えば
「女の人をどのようにぶん殴ったら合理的に服従させることができるか」
という恐ろしい研究に尽力しているサイコパスがいるとします。
本人としては真面目に取り組んでおり、さらには自分は努力家であると自負しています。
さて、あなたはこのサイコパスのことを努力家だと評価できるでしょうか?
おそらく大半の人は
って思いますよね?
さすがにこの例は極端すぎたので、もう一つ、マイルドな例を出しますね。
冷たい視線を浴びせられていたゲーマー達
あなたは、プロゲーマーという職業をご存知でしょうか?
プロゲーマーとは、華麗にゲームをプレイしてゲーム顧客を魅了し、ゲーム業界に経済的価値をもたらす存在、いわば広告塔のことを言います。
プロサッカー選手やプロ野球選手のゲーマー版と言った方が理解が早いですかね。
最近になってようやく、プロゲーマーという職業は日本でも定着し、ゲームの攻略を真剣に考えるという取り組みが努力として認められて来るようになりました。
これはゲームプレイヤーに対してアスリート性、タレント性が付与されてきたため、プレイヤーを取り巻く業界にお金が落ちてくるようになった結果だと思われます。
しかし、食える職業として認知される前のゲーマーに対する世間の目は冷たいものでした。
当時のゲーマー達の苦悩を追体験したいのなら、梅原大吾氏の【勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」】を読むのがおすすめです。
当事者としては真剣そのものにも関わらず、ゲームというだけで世間からは遊びに過ぎないと一笑に付され、あまつさえ「ゲーム脳の恐怖」という本まで2002年に出版され、ゲーマー達は一方的にディスられる始末。
(ちなみに「ゲーム脳の恐怖」に書いてあることの科学的根拠はデタラメとの説あり)
ゲーム攻略を主とするゲーマーはただの遊び人であり努力家ではない、との誹り(そしり)を受けてきたのですね。
つまり、自分が努力と思って取り組んでいても相手がそれを努力と思っていなければ良い評価はなされないという典型例、それがかつてのゲーマー達なのです。
依怙贔屓(えこひいき)される人、されない人
たとえば、高校野球に勤しむ少年は
努力をしていると賛美されますよね。
反対にゲーマー少年は
ただ遊んでいるだけのポンコツと罵られてしまう。
多くの人が
「ゲームばかりしている少年はポンコツ」
そう認識しているからです。(※もちろん例外はいくらでもあります)
仕事でも似たようなことが言えるのではないでしょうか。
片道2時間かけて出社し、嫌な上司に諂い(へつらい)、サービス残業を文句を言わずにやるのは、理解されやすい努力の形です。
一方、YouTube、ブログなどで稼ぐのは
という風に受け取る人もちらほら見かけますね。
受験勉強も同じでして。
人の目に触れずに自宅で毎日15時間、勉強漬けの日々を送っている少年は存在そのものを認識されません。
一方、親の金で予備校に通い、その様子を見た周りの人は
という評価を得るでしょう。
たとえ、見えないところでソシャゲばっかりやってサボっていても、です。
美しい努力の正体
「努力は美しい」
の努力は他者依存のものであり、コトバンクに載っている定義の努力とは様相が違うものです。
つまり
「あなたがしている本気の努力は、他人にとって遊びであり、あなたはただの野放図な輩として認識されている可能性があるよ」
ってことです。
こう聞くと、他人や世間て冷たいと思いがちですが、案外、私もあなたも「他人や世間」と同じ振る舞いをしているもの。
私達は主観で「他人の努力はこうあるべし」という風に定義しているに過ぎないのです。
もしあなたが努力を評価されたいと思ったら、世間の流行に合わせる必要があります。
これを読んでも
って思う人は我が道を突き進むべきでしょう。
でも、その道を選んだあとに
「こんなに頑張っているのに努力が認められないなんておかしい」
なんて憤ってはいけません。
あなたの努力を努力だと定義するのはあなた以外の第3者であり、あなたに決定権は1ミリもないのですから。